Diary 2005. 6
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6月1日 (水)  「たかやん議員日記」2005.第153弾! 

「たかやん議員日記」2005.第153弾!  6月1日(水)

保谷・朝霞線
6月議会が始まった。全協で一番最初の議題になったのが「保谷・朝霞線」。どうやら本気でやる気らしい。東京都は4車線で来るが、埼玉県は2車線ということで、国との交渉が難航しているという。一日に3万台通るという計算が、どこから出てくるのかは分からないが、僕は反対である。いなげやの前は今でも渋滞しているし、産業道路まで抜けたとしても渋滞はひどくなるだけだろう。第一、どこから予算をひねり出すというのだ。いなげやまでは県が8割り、市が2割負担。ところがいなげやから産業道路までは市が全額負担。仮に4車線だとするといなげやまでが74億5千万。産業道路までは21億8千万という税金が投入されることになる。今、それだけの価値があるのかどうか・・・道路を作れば交通量が増える。気温も上がる。排気ガスで空気が汚れる。それでも便利がいい?うーん、分からない。税金の使い道として、大いに疑問を感じるのだ。産業道路までは平成25年完成予定ということらしい。それから先は殆ど不可能に近いとみんな言っているのに・・・。

図面を見ると、五中の校庭に少しかかっている。五中の校庭の脇を一日3万台の車が通るというのか・・・・。昔の僕の家は完全に道路の上。僕の教え子の家も道路の上・・・・。

陳情
文教経済委員会付託の「陳情」がたくさんあった。公民館やコミセンの使用量無料を求める陳情が多かった。市民の文化活動には水をさし、相変わらず道路にはお金を湯水のように使うのでは市民は納得しないだろう。そして多額の借金を未来の新座市民が払わなくてはいけないのだから・・・。

ノーネクタイ
通勤は半袖・短パンだった。自転車にはそれが一番。控え室でネクタイをしていると、文さんが「ノーネクタイで行きましょう。」ということでみんなで議場にはノーネクタイで入った。だけど僕はどうも落ち着かなくて、全協の時はもうネクタイをしていた。エアコンの温度設定と上げるのが目的らしいが、要はエアコンの温度を上げればいいのであって、その温度で我慢できるのであれば、ネクタイとしていようがいまいがどうでもいいことだと思う。小泉純一郎の「カジュアル」な格好を見たが、本当にセンスが無くてがっかりした。

匂い
二日続けてMパーテーションの匂いがひどい。煙はあまり確認できないから、「紙と木」以外を燃やしているのだろう。法律に合った焼却施設でも助燃装置を使わなかったり、許可されたもの以外を燃やしたりするのであれば地域の住民はたまらない。あの会社の人間に地域の住民の健康と命を考える姿勢があるかどうかが今問われている。


6月2日 (木)  「たかやん議員日記」2005.第154弾!

「たかやん議員日記」2005.第154弾!  6月2日(木)

5時45分
いつも同じ時間に目が覚める。基礎英語を聞きながら新聞を読む。それからごみ捨て。朝の日課である。このところサボっているランニングをそろそろ再開しないとなあ・・・。何かいい手を考えるとしよう。

歴史教科書
今度の文教委員会で話題になる「歴史教科書」に関する本を朝から読んだ。もともと歴史は大好きなので、色々面白い話を知ることができて楽しかった。あと4.5冊読んでから委員会に行こうと思う。

市議会報告
この間から「市議会報告」を配って歩いているのだが、返信の葉書やメールが届き、嬉しい限りである。キャッチボールと同じで、投げたボールが返ってくると楽しいのである。時々お互いに暴投もあるだろう。だけど投げないボールは返ってはこないのだから、投げ続けようと思う。

新座美術協会展
6日からにいざほっとぷらざギャラリーで新座美術協会展がおこなわれる。議会中だが休会日に行こうと思っている。僕は絵はまったく駄目で、美術だけはいつも2か3.センスがないのである。だから上手な絵には憧れる訳で・・・・。絵を描いている人にも憧れる訳で・・・。きっと素敵な絵と素敵な人に出あえると思う。


6月3日 (金)  「たかやん議員日記」2004.第155弾!

「たかやん議員日記」2004.第155弾!  6月3日(金)

ノーネクタイ
ネクタイをはずした政治家達はテレビで見る限り、どうもセンスがないようだ。もともとの人相が悪いせいかも知れないが、さまになっている人が殆どいない。普段はジャージの僕がいうのもなんだが、都会的センスというものがない。教員時代は入学式と卒業式以外はネクタイをしなかった僕だが、今は逆にみんながはずしても、つけていないとどうもしっくりいかない。「ネクタイをしなさい。」と言われるとはずしたくなるし、「ネクタイをはずしなさい。」と言われると、独りでもしたくなる。天邪鬼なのかも知れないなあ・・・・。

歴史教科書
今日は本を3冊読んだ。歴史というのは書く人によって、こうも違うものだということがよく分かった。どんな数字がでてきても、書く人の都合によって色々書き換えられる。そして都合の悪いことは書かない・・・政治的意図があればなおさらである。

日本チャチャチャ
これからバーレーン戦を見る。小野の欠場で中盤がどう機能するか心配だが、暑さの中で日本がどう戦うかを見届けたい。サッカーのワールドカップ。みんながスポーツで熱くなる。いいことだと思う。テニスのデビスカップも悪くはないが、見るならテニスよりサッカーである。テニスは自分でやらないと面白くない。サッカーは見てもやっても面白い。



6月4日 (土)  「たかやん議員日記」2005.第156弾!

「たかやん議員日記」2005.第156弾!   6月4日(土)

言葉
人を傷つけるのに刃物はいらない。「言葉」で十分人は傷ついていく。しかもそれが教師の言葉で、生徒に向って言われた言葉ならなおさら・・・・。
先生に「死ね!」と日常的に言われたら・・・子ども達はどんな気がするだろう。紙に書かれた「死ね」という言葉でさえ、子ども達は傷ついていくというのに・・・・。その言葉が先生の言葉だったら・・・。考えただけでぞっとする。今日の「市民教育相談」はそういう話だった。
言葉遣いが悪い先生はたくさんいる。僕自身、きれいな言葉で話していたかというと、はなはだ自信がない。でも生徒に向って、日常的に「死ね」というのはどこかが狂っているとしかいいようがない。多分その先生自身がどこかでそういう言葉をたくさん浴びてきて、その言葉に無神経になってしまったのだと思う。だからと言って、そういう言葉を子ども達につかっていい訳がない。言葉は人の心を平気で傷つけるのだということを知らないで、教師をやっていてはいけない。傷つけられた子ども達は自分の心のバランスを保つ為に誰かを傷つけてしまうことがある。教師発の「いじめ」はこういう言葉から起きるのだ。

同期
新任の時の同期の仲間と久しぶりに電話で話をした。声を聞いていたら、あの頃の記憶が蘇ってきた。みんな若かった。22歳から24歳だった。随分に馬鹿もやった。訳の分からない数年間だった気がする。少なくても僕は、とても先生とは言えるような人間じゃあなかった。ただひたすら子ども達と一緒に勉強して、そして遊んでいた。子どもを奪回しに、ヤクザの家に殴りこみにいったこともあった。400ccのバイクの後ろに子どもを乗せて走っていて、暴走族の取締りの検問に引っ掛かったこともあった。みんなで学校で飲んで、自転車で走っていて、朝霞警察に捕まったこともあった。そんな同期の仲間達がもうみんな50歳を過ぎている。みんな30年近く教師をやって、頑張っている。僕は根性がなくて、辞めてしまったけれど・・・・・。彼らには最後まで先生をやっていて欲しい。

市民会館
明日は14時から「刷新の会市政報告会」がある。僕らは13時に集合。どんな会になるか楽しみである。



6月5日 (日)  「たかやん議員日記」2005.第157弾! 

「たかやん議員日記」2005.第157弾!  6月5日(日)

市政報告会
刷新の会の市政報告会・意見交換会があった。1時集合だったので、12時40分に家をでた。市民会館まではバイクで5分。バイクを駐輪場に止めていると、お尻が隣りの自転車にぶつかり・・・・あっという間に十台くらいの自転車が将棋倒しになった。ちょっと嫌な予感がした。
2時過ぎから始まった会では市民の方から本当にたくさんの意見や質問を頂いた。僕は3月議会での予算のことや、僕個人としては「退席」のこととかを追及されるかと思っていたのだが、全然違うサイドからの意見や質問が多く、少し驚いた。前回よりも集まった人数は少なかったが、その分みなさんの意見を聞けたような気がした。2時間半という時間があっという間に過ぎていった。
僕の応援団から前回は3人、今回は4人参加してくれた。一番嬉しかったのは長男の亮が参加してくれたこと。意見は何も言わなかったが、話を聞いていてくれただけでも嬉しかった。最初は少なくても少しずつ応援団が増えていってくれたらいいと思った。

日曜日の午後の貴重な時間をさいて参加してくれた方たち、そして意見を言ってくれた方達に感謝しています。ありがとうございました。

英会話
僕が議会で英語のスピーチをしたことも含めて、英語に対する意見や質問が結構あった。市民はやはり「英会話教育特区」に関心があるのだ。僕は英語が大好きなのは中学1年の時に初めて会った中田先生の影響なのだが・・・・実際に出来たのは国語と音楽と体育。英語は4しか取ることが出来なかった。その中学校で本当に英語ができる子は「英検1級」だったり、高校で通訳の資格を取ったりする子達だったから、僕はその子達に対する英語コンプレックスがあったくらいだ。それでも今まだ英語の勉強を続けているのはやはり中田先生の「熱」が僕の心の奥に残っているからだと思う。中学生の心はそれくらい先生の影響を受け易く、弾力性があるのだと思う。

ついてない
4時半、片付けをしていてバックを置くと・・・隣にあったゴミ箱が倒れてしまった。反省会にバイクで向っていると、前方から来た虫が右目に飛び込み、なかなか出て行ってくれない。信号でよく見ると、目の奥のほうに入ってしまって・・・右目は真っ赤になって、今でも痛い。



6月6日 (月)  「たかやん議員日記」2005.第158弾!

「たかやん議員日記」2005.第158弾!  6月6日(月)

学校崩壊
子ども達を力でコントロールしようとする教師がいたとする。力ずくで子ども達を押さえ込もうとするのだ。多少元気のいい子ども達も、力で押さえ込まれると最初は身動きができなくなる。だけど、その力に愛がないことを知ると・・・・子ども達は荒れ始める。そしてそういう教師が転勤した後、学校はさらに崩壊していく。
子どもを教育するには「愛」が必要だ。当たり前のことだ。だけど、そんな当たり前のことが分かっていない教師が、本当の意味で力のない教師が、学校で威張っていたとしたら・・・・能力のある教師達はその本当の力を発揮することはできない。
学校が崩壊していったところをよく見ると、そういう教師の存在が分かることがある。子ども達は敏感だ。愛されれば、人を愛することを覚えるし、力で支配しようとすれば、同じ事を子ども達の社会でし始める。

いい学校というのは、色々な能力を持った先生達がそれぞれの100%の力を発揮できる学校だと思う。子ども達に同じように接することは、必ずしもいいことではない。子ども達にも個性があるように、先生達にだって個性があるのだ。一緒に汗を流すのが得意な人もいれば、いい話をして子どもの心を惹きつける人もいる。授業のやり方だって、色々あるから子ども達は息抜きができるのだ。みんながみんな同じやり方、同じ接し方をしたら、子ども達は息が詰まってしまう。家庭にお母さんがたくさんいても、お父さんがたくさんいても子ども達はまともに育たないのと同じで、学校にも色々な考え方の人がいていいのだ。要は本気で子ども達のことを愛しているかどうかが問題なのであって、接し方が問題なのではないのだ。

先生、子ども達を愛していますか?自分の子どもと同じように愛していますか?それは無理かも知れませんね。でも自分の子ども達でも同じようにしていると思いますか?自分の学校に自信をもって、自分の子どもを入れられますか?
それができたら、学校崩壊は起きない。僕はそう思っています。学校を建て直すのにヤンキー先生も金八もいらない。僕はそう思っています。先生みんなが子ども達を本気で愛すること。それだけで、学校は立ち直る。僕はそう信じています。新座にはそういう先生達がたくさんいると思います。そういう先生達の愛という力を僕は信じたいです。荒れている子ども達ほど「愛されること」に飢えているのだと思います。




6月7日 (火)  「たかやん議員日記」2005.第159弾!

「たかやん議員日記」2005.第159弾!  6月7日(火)

嬉しいメール
市内の先生からメールが来たので紹介します。

高邑さん、こんばんは。
議員日記を読んでとても励まされる思いがしましたので、メールを送ることにしました。

「先生みんなが子ども達を本気で愛すること。
それだけで、学校は立ち直る。
僕はそう信じています。」

自分の体調のことも、プライベートな生活も忘れるほどに、学校の仕事に、学校の子どもたちのことに、気持ちが集中しているこのごろです。…、とても悩んでいると言った方がいいかもしれません。なかなか先が見えなくて、困っているのですが、それでもなんとかしようと思うのは、私が何かを信じているからだろう、と思うのです。目の前の子どもたちであり、私自身であり、同僚達であり……。

私も若い頃は、ずいぶん無茶苦茶なことをやってきました。それでもその無茶苦茶が子どもたちの心に届いたのは、私が子どもたちのことを本気で愛していたからだろう、と今振り返ります。

荒れている子ども達ほど「愛されること」に飢えているのだと思います。

色々考えた末に、いつも行き着くのが、↑これです。どんなことがあっても、愛し続け、決してあきらめずに……!と今夜また深く強く心に誓いました。

高邑さんの議員日記で、本当に励まされました。ありがとうございます。

*教育委員会からの報告で今市内の中学校がかなり大変な状態であることが分かった。先生達も疲れていると思う。だけどここで元気をだして頑張って欲しいのだ。「教育は愛だ!」それだけは間違いない。先生達は愛を信じるプロであって欲しい。


文教委員会
今日は大変な一日だった。9時に会派の打ち合わせがあり、9時半から委員会。10時半から視察が始まり、僕らは最後に五中へ行った。五中の校舎は本当に綺麗で明るかった。市内6校の中で一番綺麗だと思う。子ども達の表情も明るくて、五中を卒業した僕としては嬉しい限りだった。ちょっと覗いた英会話の授業も子ども達は一生懸命やっていた。発音はともかくとして、授業に対する姿勢はちゃんとしていたのが嬉しかった。図書室で食べた給食は本当に美味しかった。海老と海鮮シュウマイに中華丼に牛乳。僕の中華丼には鶉の卵が8つも入っていた。人工調味料を使っていないこの255円の給食を食べることができて、五中の子ども達は幸せだと思った。

午後の委員会は大いに疑問を感じた委員会だった。いくつかの陳情にたいする話し合いをしたのだが、新座市はいったいどこを向いているのだろうと本気で心配になった。
「新座日本語の会」は今子ども達が「英会話教育特区」でお世話になっているネイティブの先生達にも日本語を教えているボランティア団体である。15年もの間、新座に住む外国の方に日本語を教えてこられたのだ。本来行政がすべきことを黙々とやってこられた方達なのだ。学校から配られたプリントの意味が分からない。学校の授業についていけない。そういう市民の悩みに15年間も対応してきた団体なのだ。しかし、「子ども達がお世話になっている先生達に日本語を教えてくれているこの団体を助成するような考えはないのですか?本来行政がすべき事をやっているのではないですか?」という質問に、教育委員会は「そういう考えはありません。」とハッキリ言うのだ。活動内容を知りながら、そういう答弁しか出来ない教育委員会に僕はがっかりした。

新座の社会教育のレベルは全国でもトップレベルだそうだ。言わば新座の宝である。市民の誇りでもある。これはお金では買えないのだ。その宝、誇りを財政難だからと言って、活動に水を注す感性が僕には分からない。あれだけの団体が陳情に名を連ねているのだ。それを無視して、市民がそれ程望んではいない、何十億もする道路を2本も作ろうというのだから・・・・・どうなっているんだといいたくもなる。

委員会が終わったのが5時半頃。それから半袖短パンに着替えて、僕は新堀へ向った。家に帰ってきたのは11時前。ドイツに行っていた6中テニス部の教え子から嬉しい電話があった。「先生、あたしカメラマンやっているんです。この間高原選手の写真取ったんですよ。ちゃんと雑誌に載ったんですよ。見てくださいね。」彼女の声で僕の疲れは一気に吹き飛んだ。


6月8日 (水)  「たかやん議員日記」2005.第160弾!

「たかやん議員日記」2005.第160弾!  6月8日(水)

誇り
「歴史教科所」のお陰で、大分歴史の勉強をさせてもらった。日本人としての誇りを持つには、過去にあった事実は事実でしっかりと認めるということが大事だということも分かった。恥ずかしいのは、あったことをなかったことのように言うことだし、悪かったことを認めないことだと思う。どこの国だって間違いはしている。だから日本のしたことも恥ずかしくはないという論理は恥ずかしい。僕の父親達はあの戦争へ行った本人達だ。帝国陸軍の軍人だったのだ。その帝国陸軍がどういうことをやったのか・・・・その父親たちから直接聞いた話は忘れられない。あの戦争が正しかったなどと言ったら、死んだ父さんが生き返って僕を怒鳴りつけるに違いない。「このダラメが!」と。
父さんは英軍の捕虜になった。将校は檻に入れられて、現地の人たちに囲まれたそうだ。虐待をしたと指を指されたら死刑。父さんは現地の人をいじめなかったから、助かったと言っていたが、いじめてなくても指を指されたら死刑という状況だったらしい。それだけ日本軍が現地の人たちにひどいことをしてきたのだ。
僕の叔父さんはある島で空襲を受けて死んだ。偉い奴は自分だけ飛行機に乗って逃げてしまったそうだ。それも帝国陸軍の軍人の姿なのだ。どこの国にもどんな組織にも、ひどい奴らはいるのだ。日本の国が一番だ。そういう教育を受けてきたから、中国や朝鮮やロシアに対して人間とは思えない仕打ちをしてきたのだと思う。アメリカが日本に原爆を落としたのも教育なら、沖縄で日本軍が民間人を殺したのも教育なのだ。だから教科書の問題は重大なのだ。


休会日
今日も議会報告を届けに栗原地区、野寺地区をまわった。どの家も笑顔で迎えてくれて嬉しかった。昔話に花が咲いた。空を見て、みんなが微笑んでくれた。明日から一般質問が始まる。僕が大好きなH議員が今回は質問をしないらしい。いつも一番でするのに・・・・ちょっと心配である。


6月9日 (木)  「たかやん議員日記」2005.第161弾!

「たかやん議員日記」2005.第161弾!  6月9日(木)

朝ごはん
今朝のメニューはご飯、納豆、黒豆、ホッケ、とろろ汁、しし唐とウィンナーの炒め物、海苔、メカブといったところ。我が家の朝は和食である。

自転車
半袖短パンで自転車をこぐ。たいした距離ではないのに、控え室につく頃には汗びっしょりだった。今日はいつものように二番目に到着。善保よりも早く来るには8時半前にくるしかないらしい。

お弁当
控え室で一人で食べるのは嫌なので、今日も議会事務局でお弁当を食べさせてもらった。事務局はほんわかした雰囲気で、話をしていても楽しい。今日の昼ご飯はお稲荷さんにハンバーグ、黒豆、シュウマイ、サラダ。ヤクルト400。

夕飯
今日の一般質問は教科書問題で「休憩」になり、議運が開かれた。特定の教科書会社のF社を取り上げたことが問題となり議運。予定よりも大分遅れて閉会となった。僕は牛乳を買いに行き、買っておいたシリアルを食べた。そのシリアルと牛乳が僕の今日の夕飯である。

カメラウーマン
ドイツでカメラマンじゃなくて、カメラウーマンをやっている美紀が塾に遊びに来てくれた。あの高原が写っている雑誌を何冊ももって、尋ねてきてくれた。彼女は関東でも全国でも3位の学年のキャプテンだった。「先生、結局体力ですよ。この仕事。何百キロ離れていても“行きます!”って言って仕事してくるんですよ。」どうやら中学校でキツイ練習をしていたことが役に立っているらしかった。それにしてもあの高原と話ができるとは・・・・「ドイツ語?」と聞くと「まさか、日本語ですよ!」という返事だった。教え子達が世界中で活躍している。嬉しい限りである。


6月10日 (金)  「たかやん議員日記」2005.第162弾! 

「たかやん議員日記」2005.第162弾!  6月10日(金)

叔父からのメール
5月30日は朝からの雨でしたが、千葉県の参列遺族代表28人のうちのうちの一人
に選定され厚生労働省主催による千鳥ヶ淵戦没墓苑拝礼式に参列してきました。当日
は比島から収集された遺骨がこの墓苑に納められるということで参列してきました。
故兄登の遺影を胸のポケットに…………そして、敬愛する亡兄新太郎が草を起し、
母自らの筆による兄登の墓標――
「 故陸軍軍曹 高邑 登之碑  一髪も帰らざるも魂は此処古里に眠る、哀惜の情を以て之を刻む 母 祥子」 
を無言で反芻しながら−−−−−−。

僕の叔父、邑 登はフィリピンで戦死した。まだ18歳の若さだった。父の新太郎は今の航空公園で叔父登と最後の再会をしている。今だったら高校生と大学生の兄弟が、共に軍服を着ての最後の会話は、父の詩集の中におさめられている。

祖母の祥子は学校の先生だった。富山の女学校を2番で卒業した才媛だった。叔父登は兄弟の中でも一番の運動神経で、器械体操が得意だったらしい。でも夢だった飛行気乗りになることなく、登は爆弾に腹をやられて死んでいった。

父さんは、僕らの小さい頃、登叔父さんの話をしては泣いていた。まだ十代の若さで死んでいかなければならなかった弟が可愛そうでしかたがなかったのだろう。おばあちゃんも泣いていた。軍人として立派に戦死していったと言い聞かせても、息子があの若さで殺されたのだ。悔しくないはずがない。

虜囚日記抄
二十年 八月十×日
「停戦」の正体が「無条件降伏」であることがやっと分かった。今朝、敵陣からビルマの使がきて、直ちに二十里ばかり撤退しろというから、大隊長は、「停戦だ。負けたのではない。まだ弾も十分ある。7月にやられたのを忘れたか。」と追い返したが、午後師団参謀が、通訳将校とともに敵陣に行って帰って来た話では「無条件降伏」ということだった。大隊長が、しきりに「これだけ野戦で苦労させておいて、今になって無条件降伏とは何だ。」といきまいていた。誰かが「腹を切りますか」といったら「東京で楽していた馬鹿者どものために腹が切れるか。」と答えていた。これから一体われわれの身はどうなるのか。

二十年 九月×日
対戦車壕を埋めて、自動車を通すようにせよとのことで、毎日狩りだされ疲れた。同期の他の連中は、もうすることもなくて寝てばかりいるが、私は各中隊からの使役兵を集めて道路の掃除屋だ。戦争が終わって、死ぬことが無いと思った途端に、何とも感じてなかった蚊が気になって仕方がない。もう熱を押しての戦いもないから、マラリアもそんなに恐くない。

二十年 九月二十×日
ぺグーの駅の近くで検査を受けた。奴らは何でも欲しがる。時計や万年筆は、英軍の隊長に交渉して取り上げられることは免れたが、千人針は記念にと、とられた。何でも、英国は、ヒットラーの爆撃で、東京よりもひどい物資不足だとの先方の言い訳である。今日は、将校は一人ずつ竹作りの小屋に入れられた。戦犯を探すつもりか、一坪の小屋で今夜は若干寂しい。

父さんの日記を読んでいると、軍服姿の父さんが浮かんでくる。それがきっと平均的帝国陸軍の軍人の姿なのだろう。父さんは英語が話せたから、捕虜になっても色々交渉ができて助かったと言っていた。
父さんが色々と話をしてくれたお陰で、あの戦争は僕にとって現実のものに感じる。そして父さんが残してくれた、たくさんの文章から当時の父さんの気持ちが分かってくるのだ。
陸軍少尉 邑 新太郎 彼はこの時、22歳だった。  


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