Diary 2004. 8
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8月1日 (日)  「たかやん議員日記」2004.第138弾! 

「たかやん議員日記」2004.第138弾!  8月1日(日)

告別式
友達のお父さんの告別式に行った。弔辞は心のこもったものだった。僕は小学校の同級生の弔辞で泣いてしまった。その時の挨拶で友達はこう言った。「命というのは一つ消えて、一つ生まれる。そういうものではないと思います。一つの命が消える時、その命を我々が受け継いでいくのです。命は我々の中に生きているのです。ですから我々はその遺志を継いでいかなくてはいけないのです。」
僕は友達の話を聞きながら谷川隼太朗の「朝のリレー」という詩を思い出していた。(確かそういう名前だったと思う)僕達は命のリレーをしている。僕の中に父さんは生きているし、おじいさんも生きている。そしてそれをまた子ども達に伝えていこうとしているのだ。


8月2日 (月)  「たかやん議員日記」2004.第139弾!

「たかやん議員日記」2004.第139弾!  8月2日(月)

夏期講習がスタートした。3時起きで授業の準備をする。これがなかなか楽しい。階段を一段一段登っていく感覚を覚えてくれたらなあと思う。脳みそをフル活用する快感を覚ええてくれたらなあと思う。絶対評価になって、子ども達の成績表は確かに良くなった。でも実力は落ちてきていると僕は感じている。5の子に5の力がないのだ。大切なのは子ども達に実力をつけて自信を持たせること。勉強の楽しさを教えることだと思う。階段を一段一段登っていって、気がついたら「こんなに自力で登ってきたんだ!」そう子ども達が感じてくれたらいいなと思う。勉強は楽しい。自分の脳みそを思いっきり使うことは本当に楽しい。まずは自分がそれを本気で感じないといけない。さ、勉強、勉強!


8月3日 (火)  「たかやん議員日記」2004.第140弾! 

「たかやん議員日記」2004.第140弾!   8月3日(火)

道路
六中と石神小の間に新しい道路ができると・・・・・子ども達の登下校が心配である。そもそも本当に必要な道路なのか・・・大いに疑問である。いまそこにある家を壊してまで新しい道路を作る。大きな無駄がそこにはあると思う。今回の道路は政府からの交付金が下りたということらしいが、無駄遣いは無駄遣いである。どうしても必要だという理由があれば別だが・・・・。
五中の傍にも新しい道路ができるらしい。道路を拡幅して歩道を作るというのなら話は分かるが、家を壊して新しい道路を作るとなると話は別である。道路は作ろうと思えばいくらでも作れる。道路が出来れば車の流入量が増える。排気ガスが空気を汚し、温暖化を促進する。そして子ども達を危険にさらす割合が増えるいいことは余りない、僕はそう思う。


8月4日 (水)  「たかやん議員日記」2004.第141弾!

「たかやん議員日記」2004.第141弾! 8月4日(水)

先生の夏休み
「1週間くらいしか休めないんだよ。」と友達の先生がぼやく。「研修、研修で大変。」という声も聞く。大変だなあ・・・と昔を知る僕は思う。もっとも僕自身は365日部活をやったこともあるから、日曜日も夏休みもあったものではなかった。子ども達も宿題で大変なのだから、先生たちも苦しんでもらわなくては・・・そういう声も聞こえる。
僕自身は夏休みに宿題を出した記憶はない。「自然の中で遊べ!」と言ったことはあるけれど。
夏休みには学校のことなど全部忘れてしまうのがいいと思う。そう割り切るのだ。僕はそれが出来なくて家庭に学校を持ち込んでしまい、失敗をした。もう一度教師になったら・・・同じ失敗をするだろうなあ、やっぱり。
でも今の先生たちには学校以外の世界を見て欲しい。そういう研修なら大賛成だ。いつもいつも学校という狭い社会しか見ていないと視野がどんどん狭くなる。視野の狭い教師に習う子ども達は不幸である。
夏休み。子どもに読書の宿題をだすなら、先生たちはその10倍は本を読んでもらいたい。



8月5日 (木)  「たかやん議員日記」2004.第142弾! 

「たかやん議員日記」2004.第142弾!  8月5日(木)

インターハイ
六中最後の教え子達がインターハイで戦っている。中学校でテニスを始めた子達が小さい頃からテニスを始めて子達に追いつき、追い越していく・・・。それでもトップにはなかなか追いつかない。テニスの世界はそんなところだろう。ラケットを生まれて初めて握った子達を教えるのは面白い。テニスの楽しさが伝われば「一生」テニスと関わっていくこともあるから・・・・。
だから六中では1年生の最初の日からボールを打たせた。そしてなるべく自分で教えるようにしていた。当たり前のことだが、教えるのが下手な人に最初に習うとあとが悲惨である。これは「英語」と同じだ。発音のひどい先生に習うと一生その発音が耳から離れないのだ。そう最初が肝心なのである。
だから初心者を教えるのは難しい。そしてやりがいがあるのだ。
5年前の六中のEコートでボールを懸命に追っていた、あのちびっ子達がインターハイ選手になった。あの時の目の輝きを忘れないでテニスをしてくれたことが嬉しい。


8月6日 (金)  「たかやん議員日記」2004.第143弾!

「たかやん議員日記」2004.第143弾!  8月6日(金)

広島
僕の最後の修学旅行は広島。五中と六中で奈良と京都しか知らない僕にとってこの修学旅行は新鮮だった。二中ではよく「二中の伝統」という言葉がでてきたが、この修学旅行ほどその「伝統」にふさわしいものはなかったと思う。
中学生時代に原爆資料館を見て、語り部の話を聞く。日本人として大切なことだと僕は思った。修学旅行で泣いたのは後にも先にもこの修学旅行だけ。語り部の話を聞きながら、子ども達も僕もボロボロ泣いたのだ。
その「広島への修学旅行」が強引に中止にもっていかれてもう6年。新座が誇れるものがここでも力で潰されてしまった。1596名の署名は「一部の人が反対しているが・・・」という校長の言葉で葬られてしまったのだ。
広島に原爆が投下された日。日本人が、人類が忘れてはならない日だ。



8月7日 (土)  「たかやん議員日記」2004.第144弾!

「たかやん議員日記」2004.第144弾!  8月7日(土)


今朝も子ども達と一緒にテニスとサッカーで汗を流した。テニスをする時間は90分。今日も新しい小学生が一人加わりみんなでボールを追いかけた。初心者も一緒に練習できるところが自慢といえば自慢である。6中時代は6面を一人で見ていたので、1面での練習はかなり内容の濃い練習ができる。あっという間に90分が過ぎてしまうのだ。
その後のサッカーは40分。途中3分の休憩を挟んで走り回る。これがたまらない。五中でも六中でも僕は練習の前後よく校庭でサッカーをやった。男子も女子も上級生も下級生もなくボールを蹴れるから楽しいのだ。野球部とサッカーの試合をしたこともあったし、サッカー部と試合をしたこともあった。あの片山FCとテニス部で試合をしたこともあった。(危ないところで六中テニス部が勝った。あの小学生達は普通ではない。驚いた。)
今日も小学校4年生から50歳の僕まで15,6人が入り乱れてのサッカーだった。サッカーが終わってシャツを絞ると汗がコップ一杯はでてきた。サッカーをしている時、僕は子供のような気持ちになる。幸せな時間である。


8月8日 (日)  「たかやん議員日記」2004.第145弾! 

「たかやん議員日記」2004.第145弾!  8月8日(日)

大切な仲間1
久しぶりに昔のテニス仲間と集まった。西村先生は立教中学の体育の先生。僕の石神井時代の恩師古川先生の教育大の後輩に当たる。僕にとっては兄貴のような存在だ。西村先生と初めて会ったのは今から23年前。「関東中学を一緒にやりませんか?」と誘われて、それ以来僕は「関東中学」という大会の運営を手伝うようになった。昔の「関東中学」は神宮が会場だったり、立教が会場だったり、桜田クラブが会場だったりした。今のように有明になったのは大分後になってからである。神奈川のSSCで大会があった時は、毎朝4時おきで神奈川まで通った。西村先生は当時、車の運転が出来なかったので、僕らはいつも一緒だった。その「関東中学」からはたくさんの選手が育っていった。松岡修造、平木理化、長塚京子、本村剛一・・・・そして僕らの教え子達も「関東中学」を一つの目標にして戦い、そして全国大会へと進んでいったのだ。
西村先生が教え子達にこう言われたのだそうだ。「僕達が先生についていったのは、先生が僕達に本気だったからです。」僕もそうだったが、中学のトップの選手には勝てなくなる。自分が育てた選手に勝てなくなるのだ。強い選手を育てようとすれば当たり前のことなのだが、その時「技術」以外の何かがないと選手はついてこなくなることが多い。それが生徒に「本気」なることだと西村先生は言う。僕も同感である。子ども達に教師の「気」は伝わるのだ。「本気」という「気」は生徒に必ず伝わる。そしてその「気」は何年たっても子ども達の心の中に残り続ける。僕らはそう信じている。


8月9日 (月)  「たかやん議員日記」2004.第146弾! 

「たかやん議員日記」2004.第146弾!  8月9日(月)

大切な仲間2
高田先生は聖ドミニコ学園の先生だった。五中六中の女子とはライバルの関係だったが、本部役員としてはいつも仲間。僕らはいつもいいコンビだった。僕らには西村先生からの教えで「僕達はこの大会を運営させてもらっている。」という意識が浸透していた。だから選手を本部で呼び出す時も「男子シングルス1番松岡修造君、大会本部までお越しください。」というアナウンスをしていた。ネットを張るのもシングルススティックを立てるのも、本部役員の仕事。決して選手にやらせてはいけない。僕らはそういう教育を受けていた。だから中学校の県大会や市大会で本部の先生が偉そうに命令口調でアナウンスしているのを聞くと(分かってないなあ・・・・)と思ってしまうのだ。
高田先生のお父さんはあの「若い力」を作曲した有名な作曲家だが、高田先生が小さい時に亡くなったと聞いている。彼は上智大学の庭球部で僕の高校の先輩の後輩。テニス界は狭いのである。彼は僕の次の「関東中学校テニス連盟理事長」になり、そして僕を追いかけるように学校をやめてしまった。今は「木工」で生計を立てている。7月はキリマンジャロからスキーで滑り降りてきたらしい。彼らと話していると話が尽きない。魅力ある中間達である。


8月10日 (火)  「たかやん議員日記」2004.第147弾!

「たかやん議員日記」2004.第147弾!  8月10日(火)

大切な仲間3
伊藤先生は「小笠原の母島小中学校」の体育の先生である。盛岡一高から福島大に進んだ彼は「陸上」に燃えた。そしてそれを東京都の中学生達に伝えてきたのである。ところがどういう訳だか僕らと知り合い、いつの間にか「関東中学」や「全国中学」のテニスの大会本部で活躍するようになったのだ。僕は彼を「イトチン」と呼んだ。4つ年上のイトチンも僕のことを「たかやん」とか「ともやん」とか呼んでいた。小笠原の母島では島民の皆が彼のことをイトチンと呼ぶのだそうだ。彼はそれだけ島の人たちに信頼されている。彼は母島の小中学生達をとにかく鍛える。これでもかというくらい泳がせ、そして自信をつけさせる。それが彼のやり方である。僕も一度その授業に参加したことがあったが、都会のプールでは絶対に泳がせられない距離を小中学生全員に泳がせていた。そして子ども達は全員彼についていっていた。彼もまた「本気」で生徒にぶつかる教師なのだ。いとちんたちと話をしていると本当に楽しい。「教育」って何て素敵なんだろうって思ってしまう。


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